★吉冨和彦さん(元リクルート取締役)のお墓参り

リクルート社の取締役で、アジア情報開発・ACDグループの代表取締役でいらっしゃった、吉冨和彦さんのお墓参りへ行って来ました。
秋田駅から歩いて20分程にある、当福寺という小さいながらも風情のあるお寺に眠っていらっしゃいました。
(↓秋田城址公園のお堀をブラブラ歩き、当福寺に向かいます★★★秋田は5月の末なのに真夏のような暑さでした)

吉冨さんは、リクルート時代数々の可笑しな“武勇伝”を残されて来ました
・接待の場で、黙々とお鍋の具を食べ続け(←かなり美味しい鍋料理だった模様..)自分側の具を食べ終えたら、やにわに鍋を半回転させ、お客様側の具を食べ始めた話し…
・営業マンと顧客先への同行時、応接室で待たされている時にアメ玉を舐めだし、お客様が入室した時に慌ててアメ玉を応接用の灰皿に置いて、商談が終わった後、当然のように口に戻した話し…
 (お客様は目を白黒していたらしい....)
・夕方になると、退屈してしまいオフィスで好物の「くさや」を焼いて、フロア中「くさや臭」にしながら、日本酒を飲む話し…
・全社研修で鴨川グランドホテルへ行った際、宴会後の館内のスナックや、ラーメン屋。はたまたお土産屋にまで、いたるところで「吉とみ」のサインで飲食い・買物する部下達が続出、、、(←当時、リクルート社は取締役のサインで“ツケ”も効いたし、“後払いの買物”も可能だった・。・。)帰京後、200万円近い請求書がホテルから送られて来た話し…(←後日、ご自身が“社内処分”を受けた事を耳にした、、)
いつもいつも、抱腹絶倒させられるエピソードの連続でした。

いつもニコニコされ、決して大きな声は出されず、軽妙洒脱。。美味いお酒と地産料理に目が無く、筆者とも食べ歩き、海釣り、温泉ゴルフ・温泉スキー、水泳、マラソン、絵画鑑賞に至るまで、色々なシーンにご一緒させて頂き、色々な事を教えて頂きました(京都の貴船での川床遊び、祇園先斗町、料亭での会食やマナーを教えて頂いたのも吉富さんです)。
(↓“秋田の八百屋の息子…”とよく話していらっしゃいました ナレッジ&ワークスを創業する時、一番最初にオフィスへ訪ねて来て頂いたのも吉富和彦さん=通称“ヨシさん”、です)

吉冨さんのリクルート時代の後半は、少し寂しそうでした
・最愛の息子さん(大学生)を亡くされ、、
・関連企業を含め、多くの役員を兼務され全国を飛び回っていらしゃいましたが、夜は静かに読書や写経をされていました、、
リクルートの経営会議(役員会議)では、何としてでも実現したかった『中国での人材ビジネス』に支持を得られず、、
結果、退任され“独立”の道を選ばれます。

時代の先を見ていて、アイデア良し! 考えるよりも動く事を好まれ、夢を持っている『経営者』でしたが、難点(…と云うか、、周囲をヤキモキさせる点)は、“人を信じて疑わない事”、、
“人を騙したり裏切ったりするよりは、騙されたり、裏切られた方が良い”と思っているところ、、(←そもそも、傍から見て“騙されている!”のに、騙されているとは思っていない点が凄かった....)
これは、生涯変わりませんでした。。

独立後の吉富さんは、波乱万丈でありながら、感謝の気持ちを大切にされ、最後の最期まで望みを失わない「夢追い人」でした
還暦前に、「咽喉、食道癌」を患られ食道と胃の半分を失ない、声帯をも失われる大病をご経験....手術前にネッキー(リクルート社で筆者と同僚、現:博展株式会社/代表取締役の田中正則氏)とカセットデッキを病室に持参し、手術で声を失われる前に、“吉富節とカラオケで歌のレター”を吹き込んで貰った時の、照れた顔を想いだします。
その後 台湾の会社も日本の会社も清算せざる得なくなり、その整理に伴いご自身の蓄財や生活そのものも、大きな負担を強いられた様子でした、、、
そんな中でも事業意欲は衰えず、再度 中国のエンジニアを日本のIT系企業へ派遣するビジネスや、中国東北地方でのソフトウエアのオフショア開発、台湾からの留学生招聘ビジネス等、新たなチャレンジを開始!! 私の中国ビジネスのきっかけもすべて、吉富さんから学びました。

・台湾、中国の歴史や文化、民族・習慣をこよなく愛し(中華人民共和国の国体である、共産党には厳しい眼を向けていました)
・言葉を失ってしまった分、詩を詠まれたり水彩画で才能を発揮されたり、また大好きなジョギングも再開されました
・“味覚を失ってしまった分、体が滋養を感じるようになった”“毎日を平穏に過ごせる事のありがたさに手を合わせる”
 ・・・そんな毎日の一方、
・活動範囲を、台湾・中国プラス、韓国、タイ、ベトナムへ広げられ この頃から私(堤 英俊)も鞄持ちとしてご一緒し始めました

大連のホテルの相部屋で、「史記」を読んでいたヨシさんが、“人間は3,000年前と何も変わっていない...人が集まると足の引っ張り合い、権力闘争、役人は腐敗し、老いれば保身、、、周、秦、漢の時代も、今の中国も、世界の覇権を競う国々も何も変わっていない、、人間の“業”…!”と話された事、今でも忘れません・・・

そして、最期を迎えられて....
・平成21年7月の海の日の三連休、吉富さんは日課のジョギングを終え、石神井公園の自宅で倒れられました
・連休明けに連絡が取れない(出社しない)事を訝しんだ、アジア情報開発の中国人社員が自宅を訪ね、倒れている姿を発見しました
脳梗塞、、この暑い最中に倒れられ、数日が過ぎてましたが、驚異的な体力で心臓を動かし呼吸を続け、生きていらっしゃり病院へ搬送されました 

3年前、私は吉冨さんの経営するアジア情報開発社の非常勤取締役となりました。
一昨年には私が代表取締役となって、彼を手助けし、吉冨さんはACDグループ全体の統括と、趣味を兼ねての東南アジア巡り、、、、、を心待ちにしていらっしゃいました.....しかし、私と吉富さんとの会社経営に関する考え方の違いから、代表権を持つことはご破算となり、私は独立。大層ガッカリさせてしまいました。。(本当に申し訳ない限りです、、吉富さん! ごめんなさい)が、その後も何のわだかまりもなく、惜しみなく中国ビジネスのアドバイスやチャンスを頂いたり、培われた人脈を提供して頂き、ナレッジ&ワークスの「今」が在ります(特に弊社の副代表“周 而立”女士との縁を繋いで頂いた事は、代えがたい財産です
倒れられ、入院されてから私は非常勤取締役として、後処理(事業の清算、会社の休眠、営業権譲渡等)に東奔西走し、税理士の先生を始め法律家の方々に力を借りながら、何とか株主の皆さんや従業員、債権者、国税にも納得して頂いた上で、経営にピリオドを打ちました(かなりのパワーと覚悟を決めて、取り組みました)。
 ……吉冨さんが調子が良い時には、美辞麗句を並べ近寄って来ながら、具合が悪くなると踵を返したように逃げてしまい、何もしない人達...(かつてのステークホルダー達) 
吉冨さんの「褌」で相撲を取るだけとって、頬被りを決め込む自称“友人”、、、、
日頃は、偉そうな御託を並べながら、最後は言い訳や恨み言まで並べる、信用の出来ない先達、、、
本当に悔しく、ガッカリさせられたものです。

が、最後の最期まで吉富さんは“人の業”を教えてくれ、また“人を恨まないこと”も教えてくれました。。

平成22年夏、永眠
夏風邪をこじらせ、ご永眠。。
最期は最愛のお嬢様はじめ、ご家族に見守られ静かに息を引き取られたそうです。

亡くなられる3ヶ月前に、病院へお見舞いにお邪魔した際、一生懸命リハビリ(最後までベッドから体を起こす事は出来ませんでしたが、意識はハッキリ戻られており、指さし会話や簡単な筆談が出来るまで回復されていました)を続ける吉富さんに、

『ヨシさん、元気になっても 二度と事業は興さないで下さいよ!』と笑いながら話しかけた私、、
ニコニコしながら小さく顔を左右に振り“まだまだ!”をされたのが最期でした。

吉冨さん、天国で美味しいものをうんと食べて、呑んで、いつまでも私達を見守って下さい。
吉冨 和彦さん 享年68歳

合掌
(↓秋田/当福寺に眠る、吉富和彦さんのお墓